黒部の太陽


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001 2012/03/20(火) 08:32:21 ID:EtZkK9HMms
1962年に日活から独立した石原裕次郎は、五社協定の枠に苦しめられ、「自分で映画を作る」という当初の目標が揺らいでいた。
1963年には独立第1弾として、堀江謙一をモデルとした『太平洋ひとりぼっち』が公開されたが、興行面では失敗に終わった。
1964年、三船敏郎と石原裕次郎の2人が会見し、三船プロ・石原プロの共作で映画化すると発表した。しかし実現までには間隔が空いた。
日活との問題に加え、当時、石原プロの元にはスタッフ・キャスティングに必要な人件費が500万円しか無かった。
石原裕次郎はこの500万円を手に、劇団民藝の主宰者であり、俳優界の大御所である宇野重吉を訪ね、協力を依頼した。
宇野は民藝として全面協力することを約束し、宇野を含めた民藝の所属俳優、スタッフ、必要な装置などを提供。以降、裕次郎は宇野を恩人として慕うようになった。
また、制作に当たって映画会社から関西電力に対して圧力が掛かっていたが、これについては石原裕次郎と直接会った当時の社長が、
石原裕次郎の映画制作への気持ちを汲み、圧力に屈するどころか、全面協力をしたとされている。
1966年、再び三船と裕次郎が会見を開き、「毎日新聞」で連載されていた『黒部の太陽』を映画化すると発表した。

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016 2018/12/13(木) 00:12:13 ID:Qycpul66Aw
此処の建設以降大量の作業員死亡事故は起きていない

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